A LIFE OF 後 醍 醐 天 皇



1.後醍醐天皇誕生前の朝廷






@ 朝廷と幕府の関係 & 天皇家のお家騒動

 時は鎌倉時代後期。京都に朝廷、鎌倉にと幕府があった。朝廷側は先に後鳥羽上皇が起こした承久の乱により、弱体化していた。そして朝廷は持明院統と大覚寺統に分裂していた。事の起こりは後嵯峨天皇のとき。後嵯峨が弟の亀山天皇の血筋に皇位を伝えようとしたため、兄の後深草天皇側が反対した。この決着はもはや朝廷の中ではつけられず、幕府に頼ることになった。このころ幕府は朝廷と幕府の支配領域を区分して、朝廷の支配下には口を挟まないようにしようとしていた。その幕府にしてみれば、「天皇家のお家騒動なんかには首を突っ込みたくない!」というのが本音であった。まあ、とりあえず両方の家から交互に即位したらいいやんかー、ということにした。これ以後、新しい天皇を決めるときは、幕府にお伺いを立てなければならなくなった。

 その後、皇位を巡って、持明院統と大覚寺統のバトルが繰り広げられる。このころの天皇は子供がなるのが普通。そして天皇を操るのは天皇のお父さんである上皇。つまり院政が行なわれていたのだ。でも幕府があるから朝廷は何もできないのではと思うかもしれない。それは違う。幕府は東の方はがっちりと押さえているが、西はいまいち。だから京都周辺や西の方は朝廷が支配できる余地があるのだ。



A 関東申次(もうしつぎ)・西園寺家

 さっき幕府は皇位への口出しに対して積極的ではなかったと言った。では皇位は誰が決めるのか。関東申次という朝廷から幕府へ連絡する役職があった。その役職は公家の西園寺家の独占状態!西園寺さんが幕府と親しかったためだ。連絡役の西園寺さんが「次はこの人を皇太子にするといいですよー。」と幕府に言う。幕府はどうでもいいから「それじゃー、そうしよう。」ということになり、決定!つまり西園寺さんが誰の味方になるかで皇位が決まるわけだ。持明院統も大覚寺統も西園寺さんに気に入ってもらおうと必死。西園寺さんの娘を皇后にしたり、西園寺さんの官位を上げたり。そして一介の公家だった西園寺さんは朝廷を動かす力を手に入れたのだー。




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