A LIFE OF 後 醍 醐 天 皇



2.尊治くん誕生!




@ 誕生 〜ハンディ付きのスタート〜

 皇位は後嵯峨から後深草→亀山→後宇多→伏見と引き継がれていった。伏見天皇が即位し、後深草上皇の院政が始まって約1年経った正応元年(1288)11月2日、後宇多上皇に次男が誕生した。この子が後に後醍醐天皇となるのだ。
 母は五辻忠子。五辻家は三流の公家で、忠子の父・忠継は50歳で公卿の入口である従三位になっている。後宇多上皇の長男(邦治親王。後の後二条天皇)は弘安8年(1285)に生まれている。母は堀川具守の娘。こっちは一流の公家。堀川具守は従一位で内大臣になっている。この母の身分の違いは当然子供にも影響する。次男というだけで大きなハンディ、その上身分も劣る。天皇の子だから安泰と思ったら大間違い。親王になると皇族として身分確保、正式な名前ももらえるのだが、なれなければ系図の上でも「皇子」と書かれるだけ。兄の後二条は誕生の翌年に親王となっているが、後醍醐天皇の方はまだまだ。名無し人生が続く…。


A 紆余曲折 〜皇太子への道〜

 しかし母ががんばった。後宇多に息子の親王宣下を頼んでも埒があかないとみて、大覚寺統のドン・亀山のもとへ。亀山は好色の人で忠子も見染められ、亀山の後宮入り。なんかフシダラだけど当時はよくあること。忠子の連れ子である尊治くんは祖父亀山のもとで養育されることになった。尊治くんは利発聡明で、亀山に気に入られる。亀山は忠子に従三位・そして准后(皇后に準ずる地位)を与えるとともに、尊治くんを親王にした。このとき尊治くん15歳。これで天皇になる資格を得たのである。このとき兄・後二条は既に天皇になっている。亀山は尊治くんを後二条の皇太子に推薦したが、このときは持明院統の花園が皇太子になった。ではその次に天皇になれるかな?忠子と尊治は期待したはずである。しかし!ここで意外な展開。亀山に子(恒明親王)ができる。晩年(55歳)にできた子なのでカワイイ!ということで亀山の関心は恒明親王に移る。亀山は次の皇太子は恒明を!と言い出す。尊治くんピンチ!そして兄の後二条に長男(邦良親王)誕生。後宇多としては後二条に次に邦良を位に付けたい。四面楚歌状態。ところが亀山が崩御。恒明親王を天皇にせよ、と遺言を残すが、後宇多は反対。自分の孫・邦良に継がせると心に決めている。そこへまた異変。後二条が崩御。まだ24歳。邦良はまだ幼いし小児麻痺にかかっていた。後宇多が下した決断は、尊治を皇太子にすること。自分の子だから親父の子の恒明よりはマシだというところだろう。尊治くんを皇太子にするにあたって、後宇多は「皇位・土地財産は後二条の子・邦良に引き継ぐこと」という条件を出した。尊治くん、内心ムッとしながらもしぶしぶ了承する。これで尊治くんは念願の天皇を約束されたのだった。時に尊治くん21歳。







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