A LIFE OF 後 醍 醐 天 皇



6.正中の変




@ 幕府を潰そう!

 やる気マンマンで政治を始めた尊治くんだったが、思い通りにならないこともある。
(尊治くん)「今度、この法律を出すぞ!」
(公家の一人)「それは・・・。幕府に問い合わせてからのほうがよいと思います。」
こんなことが度重なって、尊治くんはイライラがつのってきた。天皇が決めた事なのに何で臣下である幕府にお伺いを立てないといけないんだ!宋学では、「臣下は主君に従え」と書いていたのに。そもそも天皇は日本全国を治めるべきなのだ。幕府がのさばっているのは間違っている!

 そのころ幕府はどんな感じだったかというと、執権の北条高時は政治嫌いなのか、やる気なしモード。それで、執権の内々の家来であった長崎円喜・高資親子のやりたい放題だった。幕府に仕えている御家人からすると不安で不安で仕方がない。また元寇のときには働いたのに恩賞をくれなかったという前例もある。幕府に対する不満がたまっていた。

 その状況をみた尊治くんは「これは幕府を潰すチャンスかも。」と判断。この尊治くんの考えに同調する公家がいた。その代表的な人物は日野資朝(すけとも)と日野俊基(としもと)。二人とも宋学のシンパ。資朝はそこそこの家系の公家の3男坊。親・兄弟が持明院統につくなか、尊治くんのほうに走った「不良息子」である。俊基は冴えない学者の家の出身(資朝と俊基は同じ名字だけど、かなり遠い親戚で家柄が全然違うのだ。)。尊治くんのお蔭で出世コースに乗せてもらったので、「この人について行くんだ!」と心に決めていたのかも。この二人が中心になって味方を募った。『太平記』や『増鏡』に資朝と俊基が山伏に変装して、それぞれ関東と紀州に行ったという物語があるけれど、これは作り話ではなさそう。花園上皇の日記の元亨三(1323)年11月5日条に「資朝が勅使として関東に行くそうだが、急な事だし何しに行くんだろう」と書いているし、幕府のほうでも「勅使が来ました」という記録が残っていないのだ。ということは、この時に討幕の勧誘に行ったのかもしれない。

 尊治くんの味方は、以外なところにも潜んでいた。幕府に仕える事務官僚系の御家人である二階堂道蘊(どううん)や、六波羅探題にいた御家人の伊賀兼光など。幕府の組織のなかにいて、スパイのような活動をしていたとも言われている。他にも、文観などの僧を味方につけた。こうして討幕の準備は着々と進められていた。

 元亨四(1324)年6月25日、父の後宇多が崩御。これで尊治くんは名実ともに大覚寺統の惣領だ。父は兄の後二条の子孫へ皇位を伝えるつもりだったけど、父が亡くなったから自分の思い通りにできるかもしれない。やっぱり皇位は自分の子供に伝えないと。そのためにもがんばって幕府を取り除かねば!ここから先、討幕の準備はますます加速していった。



5.後宇多院政から後醍醐天皇親政へに戻る

A LIFE OF 後醍醐天皇 のホームに戻る

きゅーchanのほーむぺーじに戻る


This page is produced by Yuko Nakai.
inserted by FC2 system