A LIFE OF 後 醍 醐 天 皇



5.後宇多院政から後醍醐天皇親政へ




@ 後宇多院政

 尊治くんの即位に伴って、父の後宇多法皇が院政を始めた。おかげで尊治くんは直接政治にタッチできない。政治意欲満々の尊治くんは「オヤジめ!早く引退しろ!」と思っていたに違いない。尊治くんはこのとき既に尊治くんは30代前半。ちなみに後宇多は50代前半。

 ところが元亨(げんこう)元(1321)年12月、後宇多法皇は院政を辞め、政務を尊治くんに譲ってくれた。文保(ぶんぽう)2(1318)年2月に尊治くんが即位したから、院政は3年半ちょっと続いたことになる。後宇多上皇は院政を辞めた理由は「密教の修行がおろそかになるため」と言っている。院政を始めたのもしぶしぶっだったという。

 持明院統の花園上皇は尊治くん即位後の後宇多院政について、「後のほうは政治が乱れてきて、賄賂で動かされてた」と書いている。後宇多法皇は後二条天皇のときも院政をしているが、このときはかなり評判良かったらしい。後宇多の政治意欲がなくなったのかな?でも尊治くんが後宇多に圧力をかけて無理やり辞めさせちゃったってことも考えられる。ともあれ真相は闇に葬られたままだ。

 これ以後は尊治くんが直接政治に携われるようになった。バンザイ!


A 後醍醐天皇の政策

 尊治くんは、結構勉強好き。皇太子時代から、政治経済の本を読み漁っていたようだ。そして尊治くんは新しいモノ好き。当時、最新の本といえば、中国の宋っていう国の本。この本のなかから、天皇としての在り方、政治の仕方、経済の仕組みなどを学んだのだ。天皇になってからは、宮中で宋学が大流行。公家たちといっしょに宋学勉強会をやっていた。

 ということで、後宇多から政務を譲られたときは、政治の理論はばっちり頭のなかに入ってる状態。学んだものを実際にやってみたいと思うのは自然なことだ。やる気マンマンの尊治くんは、まず記録所という政治拠点を置いた。尊治くんの命令を実行するように手配したりする。でも一番重要な業務は土地訴訟の解決。寺社や公家が記録所に訴えてくるので、それを裁くのだ。この記録所には後醍醐天皇派の公家が集結。尊治くんを支えている。

 尊治くんが重視したのが、朝廷のある洛中を支配すること。検非違使庁は洛中支配に直接関わる機関なので、ここにも腹心の公家を送りこむ。検非違使庁というと今でいう「警察」にあてられているけれども、それ以外に「地方裁判所」のような機能もある。記録所の裁判は身分がある人が対象なんだけど、検非違使は洛中の庶民が対象なのだ。このように、庶民に近い機関を通して洛中支配実行!

 商業者に対する政策が多い。当時、商業者は寺社や有力公家(本所という)に属していて、本所に供物を納めていたのだが、これを免除にする。こうすると、商業者はより自由に動き回れる。それから酒屋への課税。商業者のなかでも酒屋は洛中に定住しているので課税。これを払うと堂々と商売できる(払うのを拒むと牢屋行き)。

 のちには米不足で高騰した米の値段を引き下げて、餓死者を減らそうとしたり、関所を通過するとお金を徴収するので、関所の数を減らしたりした。これで商業者がさらに動きやすくなる。

 これらの政策で洛中の庶民は大喜び。そして、これらの政策の狙いは京都を商業都市として栄えさせようとしたものと言われている。後醍醐天皇が始めた政策は室町幕府でも継承されたのだ。先取りの政策を行なうなんて、尊治くんすごーい。



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6.正中の変に進む

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