A LIFE OF 後 醍 醐 天 皇



4.即位




 花園天皇は徳治3(1308)年に即位したので、文保2(1318)年で即位10年目。10年が天皇交替のめやすになっていたのでそろそろ尊治くんの出番だ。

 でも天皇の交替は鎌倉幕府にお伺いを立てる風潮になっていたので、関東申次(鎌倉幕府との連絡役)の西園寺実兼さんを味方につけたほうが有利。西園寺さんとしては「尊治くんを天皇にしたらかわいい末娘が后になれるんだから…」ということで、尊治くんに味方をする。それに実兼さんは持明院統のボス・伏見法皇にかわいがられていた京極為兼という公家がキライでキライでたまらなかったらしい。京極為兼は、実兼さんが幕府に悪口を吹きこんだおかげで2度も島流しの刑に処せられている(実兼さん、職権乱用では?)。ということで実兼さんは持明院統より尊治くんがいる大覚寺統に好意を寄せるようになる。

 これを利用したのが大覚寺統のボスであり尊治くんの父である後宇多法皇。後宇多の真の目的は尊治くんを即位させることではなく、尊治くんの兄・後二条の血筋に皇位を伝えていくことである。そのため花園→尊治くん→後二条の子供の邦良という計画を企てていた。この計画を西園寺実兼さんに後押ししてもらう。しかし持明院統は「それでは約束が違うぞ!持明院統と大覚寺統で交互に出すはずなのに、大覚寺統が2代続くことになるじゃないか!」と猛反対。尊治くんの次には量仁(かずひと)親王を推してきた。ところが持明院統のボス伏見が死んでしまい、持明院統の力が弱まった。そしてあえなくダウン。花園天皇の退位し、邦良親王が皇太子になることになった。

 そして文保2(1318)年2月26日、花園天皇退位、尊治くん即位。時に尊治くん31歳。この時代の天皇は子供のときに即位することが多かったので、尊治くんのように働き盛りで天皇になることは稀だった。これは慣例的に院政が行なわれていたためである。このときも例外ではなく後宇多が院政を行なうことになった。でも伏見天皇のときなど、天皇が直接政治を行なった(天皇親政)時期もあったし、尊治くんの年齢なら十分政治に携われるので、「天皇親政になるかな?」と期待したはずである。でもおあずけ。がっかりしたんだろうなあ。



3. 皇太子時代に戻る
5.後宇多院政から後醍醐天皇親政へに進む

A LIFE OF 後醍醐天皇 のホームに戻る

きゅーchanのほーむぺーじに戻る


This page is produced by Yuko Nakai.
inserted by FC2 system